リビドー |
松下仁のブログです |
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なんだろうな。漠然と役者をやりたいって思ったのは中学生の頃だったはず。たぶん、目立ちたいとか必要とされたいとか思ったんじゃないかな。その後漠然は、感動したい、生きたい、って事に変化した。けど、やっぱ「必要」は漠然の中に含まれている。残っている。と思う。
一昨日気づいたんだですけど、芝居って人の前で泣いたり怒ったりするじゃないですか。
泣く怒るってのは、その人個人のライン?目安みたいなもので、人が何に対して怒るかってのは個人を現わしていると思うんです。
そして泣く怒るってその瞬間を生きてるってことでしょ。舞台上でそう言うことすると見てる人は感動する。日常生活では他人にとってそれは意味?価値はないじゃないですか。まぁ、舞台上でも観客によるし、内容にもよる。舞台上で感じているのは「役」だってのもあるだろうけどそこはちょっとおいといて。
なんどろうな。「自分」がその時を生きていて誰かが感動するってのは「自分」が生きていることに価値が生まれるってことでしょ。
自分が泣いたり怒ったりすることに価値が生まれるなんて「自分」がいるってことじゃん。「自分」に意味があるってことじゃん。
必要でないことはない。
自分っていう存在が生きている必要性。
だからやってるのかも。
ただ僕は日常でほとんどそう言う経験がないんです。怖くて。できていないです。
香川照之さんの自伝本で
「セリフという嘘ごとの中で本当の気持ちを吐く権利と安心感がある」
と書いてましたいが、共感しました。
他人の言葉を借りてじゃないと本音を言えない。
だからやってるのかも。
人として生活するために。